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イン・ザ・メガチャーチ

朝井リョウさんの9月5日発売の新刊を早速読んだ。ストーリー展開もテーマ設定も面白く、あっという間に読み終えてしまった。「この時代の香りを瓶詰めにして残しておきたい」とご本人が明言しているとおり、この2025年を支配するあらゆる事象を、高い解像度と言語化能力、スピーディーな物語展開で表していた。 また、実験作だった「生殖記」での一人視点での語りとは異なり、これまでの多くの作品と同じように複数の主人公視点での群像劇で、すべての物語が交差するクライマックスを提示している点でも彼のいつものスタイルが貫かれており、一ファンとしては期待どおりの楽しい作品だった。「推し活」を通じて三人の登場人物の人生が壊れていくストーリー展開は、ドラッグを通じて破滅する三人の登場人物を描いた映画『レクイエム・フォー・ドリーム』のようだった。 朝井リョウさんの作品は、『暇と退屈の倫理学』といった思想書のような主張をベースに物語を構築し、その主張をわかりやすく登場人物に語らせるのが特徴だと思う。 金原ひとみさんが最新著の『YABUNONAKA』で登場人物に語らせている通り、「(登場人物である語り手の好きな)作家等の多くは、手を替え品を替えさまざまな小説を書いていると思わせながら、実際には生涯をかけて同じテーマを書きづつけている」(p.7)のが本当であるとすれば、朝井リョウの小説はいつも個人の生きがいとアイデンティティ、それと相対する社会について書き続けている気がする。これは『何者』や『死にがいを求めて生きているの』という過去作に顕著だ。今回の小説もそのとおりだが、今回はその中で物語が果たす役割について深掘りするものだと感じた。彼のコアの主張は以下のとおりだと解釈した: 「多様な」この時代は、個人を解放する一方、生きがいを見出すことを難しくしている 「多様な」価値観が認められるようになり、私たちはそれぞれを肯定する言説やコミュニティを容易に見つけ出せるようになった。 例えば、一人の女性の生き方ひとつをとっても、昔は「既婚・子どもあり・専業主婦」がデフォルトの選択肢だったが、現在は既婚/未婚、子あり/子なし、キャリア中心/プライベート中心など多様な生き方が社会的に容認されるようになりつつある。年齢だけではなく、これらの属性に合わせた女性ファッション雑誌が生まれ、またインターネットでコミュニティができるようになった。また、あらゆる個人の性格のあり方も肯定されるようになった。また繊細であることについては「HSP」や「繊細さん」といった呼称が与えられ、その性質を生かした生き方が提唱されるようになってきた。食生活についても、雑食、フレキシタリアン、ペスカタリアン、ベジタリアン、ヴィーガン等、多様なあり方が広まってきた。 この現代的な自由は個人を解放している一方で、新たな呪いをかけている。多すぎる人生の指針から、自分オリジナルのものを選び、(実態としては選択肢が限定的だったとしても)その責任を請け負うことだ。何でも「ポジティブに言い換えられる」現代社会、不正解ではないとされるものが雑多に溢れる今、逆説的に他のなにものでもない自分の状態を肯定しつづけるプレッシャーが生まれているのだ。これは作中でも繰り返し登場人物たちに語らせている。 年収二百万円の幸せ生活、おひとり様の幸福論、辛い過去があるからこそ幸せに気づける-何でもかんでもポジティブに言い換えられる今、不幸や絶望さえ拠り所にさせてもらえない今、何でもいいから信じられるものがほしかっった。 『イン・ザ・メガチャーチ』(p.97) 「今って本当に、人生の指針がないですよね。幸せの形は人それぞれって言えば聞こえはいいですが、あらゆるパターンの人生が可視化されて、これまで提唱されてきた生き方の正解とか成功の条件みたいなものはただの幻想だってことが知れ渡りました。(途中略)何でも視点を変えればマイナスな要素があって、万人に通ずる物差しなんて存在せず、何もかもが簡単に引っくり返ることが急速に知れ渡りました。今は誰もが、幸せの形は人それぞれっていう話ばかりしています」 『イン・ザ・メガチャーチ』(p.387) 「生き方の正解や成功の条件、つまり万人に通ずる物差しが存在すると思われていたころは、自分を使い切る対象の価値が問われていました。(途中略)今は、何が世のため人のためになるのか、その価値観自体が簡単に引っくり返ります。(途中略)この要領でどんな思想も簡単に反転させられるとなると、逆に、ある一つの物事を信じ切るという行為自体に輝きが宿るんです。何もかもが揺らぎやすい今、確固たる信仰対象があり、それに対して自分を使い切っている姿そのものに希少価値が生まれるんです」 『イン・ザ・メガチャーチ』(p.390) そんな世界では、その選択肢を「自分がどれだけ信じられるか」、そしてそれを測るKPIとして「自分をどれだけ使い果たせるか」が重要な指標になってくるのだ。 神のいない(正解のない)、多様な社会において、物語は個人に生きがいとコミュニティを与える。 そんな多様で選択肢が溢れる社会の中で、絶対的な宗教のような価値観がない今、物語は信仰とアイデンティティを与えてくれる。私も、私の周りの人たちも、大なり小なりそれぞれの物語を信仰して生きているのではないか。 「成長信仰」はそのひとつだ。私はかつて非常に忙しいとされる会社に在籍していたが、人は成長をつづけるべきで、これによって自己実現がなされるのだという物語を信仰して働き続けていた。この物語が提示する人生の過ごし方は非常にシンプルだ:仕事をがんばればよい。私は自身の全身全霊を仕事にかけ、休日は仕事の体力を培うためにジムに通い、残りは体を休めた。自分の成績が数値化され、周りと比較され、その成績があがっていく様子をみることは極めて快楽物質を生じさせるものだった。地元に帰ると、そのゆったりとした雰囲気と子どものころの思い出からこの「成長信仰」が脱洗脳されそうになり、翌日からの仕事に差し障りそうだったため、いそいそと自分のマンションに帰ったりしていたのを思い出す(何のために・どのように成長したいのかと問われると、「不確実な社会でも生きていけるようになりたい」といったぼんやりとした目的しか持てておらず、自身が進んでいる成長の方向性が本当に有益なのかというところまでは思い至っていなかったのだが)。 興味深い「プレ花嫁」といった現象もそのひとつだ。インスタグラムでは一つのコミュニティを成しており、結婚式場の選定からドレス、前撮りの場所やポーズ、当日の演出、ストイックなダイエットから高級エステ・サロンまで、熱意を持って準備をしている女性たちをみつけることができる。おそらくそれぞれに細かい階級があり、会場(しばしば高級ホテルで、そのなかでも階層があるようだ)やサービス・オプションなどの固有名詞まで細かく語っているのが特徴だ。そこまでのお金と労力をかける気持ちはどうしてもわからないが、きっとその裏には私が生きているのとはまた違う物語があるのだろう。最大限豪華な結婚式を開催することで、家族への感謝を伝えることに加えて、裏打ちされた財力と夫からの愛情、そして自身が幸せであることをビジュアルで示すことが、一つの自己実現なのかもしれない。 そして、作品でフォーカスを置かれる「推し活」も同様だ。推し活は自分の人生と、自分の「推し」の人生を同期することで、より大きな物語を生きることができる。また、コミュニティを与えることで、多くの人と繋がる機会を与えてくれる。全く違う立場の人々だったとしても、「推し」を共通とするという一点で通じ合うことができる。また純粋な「好き」という気持ちが動力源のため、ポジティブな気持ちでいることができる(「尊い」「しんどい」といった言葉からこのニュアンスを感じることが多い)。そして、「推し活」は個人の生活に短期的な目的、枠組み、そしてわかりやすい報酬を与えてくれる。多くの選択肢で溢れる世界の中で、取り組むべき事項とそうでないものを明らかにしてくれ、そして毎日のルーティーンまで規定してくれる(これは宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」でも描かれていた観点だと思う)。そして「推し」は基本的には裏切らず、自分やファンを肯定してくれる(その分裏切られた時の反応が大きい)。 これらは日常でみられる卑近な例で、作中でも取り上げられる陰謀論や、ファクトに基づかない政治的主張もそのような物語の一つだ。 しかし、この物語はだれかが恣意的に設定しており、個人を容赦なく搾取しうる。 一方、宗教がしばしばそうであるように、物語は誰かによって恣意的に導かれており、個人を自動的に服従させるためにつくられていることを忘れてはいけない。 「成長信仰」は会社の経営にとって、「プレ花嫁」はブライダル業界にとって、「推し活」は関連産業にとって非常に有益な存在だ。それぞれ自分の人生を輝かせる嗜み程度であれば個人の福祉にも問題はないだろうが、それぞれもっと個人から引き出そうと設計するのが世の常である。「成長信仰」は、もっと成長することを要求し、ときに競争などを通じて過度な労働やランクアップへの課金を求めてくる。「プレ花嫁」では結婚式場やエステ業界はさまざまなオプションやイベントを提示し、微妙な差異とブランド感を演出することで購買を煽ってくる。「推し活」ではCDやコンサート、ファングッズといった金銭的なコミットメントだけではなく、投票行動といった時間的なコミットメントまで求めてくる。 ミシェル・フーコーが提唱した「規律権力」という概念を思い出す。昔は王様や国家が「処刑」や「拷問」など目に見える暴力で支配していた一方、権力はもっと「日常生活にしみ込む形」で作用するようになった。具体的には、個人を「監視し、訓練する」ことで、「自ら進んで従わせる」ようになった。「中央から監視できる監獄」(パノプティコン)のアイデアを例に、常に自分が監視されているかもしれないという意識が、人々を自発的に模範囚のように振る舞わせるのだと主張する。 物語が人々を支配する現代においては、この「規律権力」よりさらに進化している権力が存在しているのかもしれない。物語・イメージ・メディアを通じて「何を望むか・何を信じるか」を方向づけ、コミュニティや報酬といったインセンティブを与えさえすれば、有権力者が監視や訓練しなくても、人々が自発的に、思うままに動いてくれることができる。 (朝井リョウが「視野を狭める」として表現するように)、少ない物語を全力で生きることは私たちにわかりやすい生きる指針とアイデンティティを与えてくれる。一方、有権力者が個人を搾取するツールとして使われており、自分の人生が搾取されかねないことにも意識的であるべきだ。

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