The Testaments
奇しくもわが国にも確か10年前くらいに「女性は産む機械」と表現した厚労相がいたやに記憶しているが、侍女の物語とその続編The Testaments(誓約)ではまさに社会が女性を産む機械(=侍女)として扱う未来のアメリカ、クーデターにより成立されたキリスト教原理主義国・神秘主義国であるGileadの姿が描かれている。 簡単に言えば、物語世界の中で女性は①妻になるか(=Wives/Econowives)、②家事をするか(Marthas)、③(上流階級である妻Wivesが不妊の場合)子供を産むか(Handmaids)、④女性たちの指導役になるか(Aunts)のどれか一つしか選ぶことが許されないなど、他のディストピア作品と同様強烈な描写が続くが、この作品世界から乖離しているとは決していえない現実世界のことを思うと、常に物語に私の腕を掴まれているような心持ちで向き合わざるをえないのであった。つまり、一作目の侍女の物語が発表されたのは1985年だが、その後Gileadに似たようなISIS(キリスト教ではなくイスラム教だが)が現実の世界に登場したり、各国で極右政権や反知性・科学主義が台頭するなどのマクロなスケールでの類似性が認められることはもちろんのこと、1人の女性として私が大人になるまでに経験してきた息苦しさ、差別、そしてこれから直面するだろうそれらについて、ミクロ視点からも、この物語が決して絵空事ではないことを認めざるをえないのである。 一作目の「侍女の物語」は語り手である主人公の侍女オブフレッドの絶望的でかつその孤立無援な心理を反映した、陰鬱な雰囲気を纏っており、読み進めるのが本当に苦しかったが、二作目は全く異なるものだった。 二作目は理知的な小母リディア、司令官の娘として育てられるアグネス、カナダの古着屋の娘であるデイジーの三者により代わる代わる語られ、その登場人物の性格や社会的地位を踏まえると、一作目に比べて明るい語り口が特徴的である。 また、一作目では、主人公の侍女から他の女性は主に敵対や抑圧をする存在として描かれていたが、この点についても二作目はは異なっている。この女性同士の区別という要素は、ギレアド政府としては(アパルトヘイトなどこれまでの歴史でのプラクティスと同様)、被征服者間の断絶を産むことこそが制度として女性に対する差別を強固にする意図があったのだろうが、二作目では女性同士の個人個人としての結びつき、紐帯という要素が加わり、これがこの陰鬱な世界を変革する切り札として描かれている(ネタバレにならない範囲では、一作目では共感しづらい人間として語られていたMarthaたちと比べて、二作目で司令官の娘であるアグネスから語られるMarthaたちは人間的で愛すべき人間としてその存在を表していることが大きな変化としてあげられるだろう)。一作目では、個人としてただ抑圧され、その運命を受け入れ、その苦しみが閾値に達するまで耐え忍ぶのみだった女性が、二作目では他人に心を開き、その苦しみを分け合い、緩やかな紐帯を結んでいくーーこれは一作目になかった要素であり、この”切り札”によってその世界が少しずつ良い方に向かっていく仄かな予感が、物語世界の全体を取り巻いている点も特筆すべきである。